昭和42年05月24日 朝の御理解



 信心は自分がしておると、自分が出来ると思っておった。大きな考え違いを分らせて貰う、自分がするのではない、させて頂くのである、神様のおかげを頂かなければ、どうする事も出来ない私であるという、無力な吾れという、そこの所から信心がなされていかなければ、信心で頂く所の喜びと言う物は頂けない、自分がすると、自分がしておると、そこの喜びと言う物は。
 あっても無くなって行く、させて頂いておると言う所に喜びが湧くのです、そこの所を本気で解らせて貰わなければなりません、日常生活の中で。そうした意味での力みと言う物が、あってはなりません、神様のおかげを頂かなければ出来ないという、そこからさせて頂く事も、思わせて頂く事も、神様のおかげであるという信心になって行く、深い喜びと言う物が頂ける。
 理屈を云えばですね本当に誰でもすぐわかることですが、自分でここまで歩いて参って来たいうことを厳密に考えただけでも、自分で参って来たんじゃないんです、神様にお引き寄せ頂いて、神様のおかげで歩かせて頂いておるのです、自分で歩いておると言うことは決してないと云うことが分る。その証拠には、ちょっと足を怪我でもしたら、ビッコをひかないかん。
 ビッコぐらいなら歩いているからいいけれども、もっとひどく成ったら歩く事すら出来ない、自分で持っておると思っておるが、中風にでもなったら、この手も自由にならない、自分で見ておると思うておるけれど、さあ電気が消えてみると、そこにある物すらが分らない。神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないという事は、そう言う様な例を取ってするなら、分るんですが。
 実感として神様のおかげを頂かなければ、出来る事ではないという事を、分らせて頂く所に信心の精進が、ひとつの方法というかね、色々な手段というか、それを本当に実感させて頂く為に、様々な信心の稽古をさせて頂いておる、そして本当に自分で何一つ、出来ると言う事はないんだなと、神様のおかげを頂かなければ、出来る事ではないんだなと云う事を実感させてもらう。
 その実感が喜びになって来るのです、私がさせて頂いたんだ、お許しを頂いて神様がさせて下さったんだ、と言うところにはですね、今日も御用にお使い回しを頂いて有り難い、その為に朝のすがすがしい信心の稽古、そして今日もどうぞ御許しを頂いてから、手も足も、口も心も神様のお使い回しがなければ、神様に使って頂いて、そして使うて頂くところの有り難さ。今日も一日お使い回し頂いて、おかげで、手も足も自由に働かせて頂く事が出来たという実感がです。
 昼の忙しさから 夜の有難さに継がって行くのです。そういう日々を尊いという事に、気付かせて貰わなければいけないと思います。先日でした以前の上野愛子さんです、現在では園田愛子さんになっております、あちらは大変なお百姓さんです、私が先日、どうねこの頃たまには家でお花のひとつも出来るね、お花好きでもあり上手でもありますし、又、お茶なんかもやっておりますから、雨降りなんかはゆっくり、お年寄りもおられる事だし、ご主人にもお茶でも立ててから、ゆっくりお茶を頂く事があるかと。
 先生、全然お花のはの字もない、お茶なんか及びもつかない、それこそ目が覚めてから、晩休ませて頂くまでが忙しい、忙しい、その忙しい内容を聞かせて貰って、本当にもうびっくりしました、今頃でもそういう所があるだろうかと思ってびっくりしました。第一お茶碗洗う暇すらないと、ご両親が元気でおられますけれども、とにかくご飯を頂いたら、その御茶碗を洗わんなり、引き出しの中に入れとかんならん。
 もう行った頃は大変な綺麗好きですから、どこもかしこも開け散らかして、洗ったり、掃除をしたりしなければなりませんでした。それをずっとご両親が辛抱しておられたらしいですね、たいがい辛抱しておったけれど、愛子さん、そげんお掃除ばっかりしよったら、仕事が出来んばのと仰った、お客さんが来られる訳じゃなか、ゴミがしとったって良か、兎に角早く仕事に出らんの、それがですね、嫁は使わんとならん、それが当り前として云われる、それが愛子さんに一つも響かないんですね。
 先日から御姉妹とお母さんを、御導きして参って来ておりましたが、愛子さんがどの位信用されているかという事はですね、もう姉妹の方達が色々病気されると、愛子さんがお参りしていた所にお願いに行きなさいと云うて、両親が云われるそうです、後家に行っておりますから、前の奥さんて方は非常にさばけて、前の、〇〇さんは、こげな風にしよったばの、あげな風にしよったばのと、つい前の奥さんの事を云われるなら、腹が立ったり、何か嫌な感じがするらしいけれども。
 愛子さんにするなら、本当に心の内容がいいのでしょうね。本当に聞かせて貰うと、自分も見習わせて貰わなという気だけしか起こらないと、素晴らしい事だと思います。子供達も、お母さん、お母さんと、本当にお母さんになっている、なつかれたら又、可愛いで堪らんねと、話した事で御座いますけれど、まだ、そういう生活をしている人達があるんですよ、ガスも無いなら、文化的なものも無い、薪をぼんぼん燃やさなければ、ご飯を炊かれないと言う様なお家です、全然百姓もした事もない、それでも仕事に慣れて。
 そういう難しい仕事も手伝いながら、ムシロ織りが非常に盛んな村なんです、先生おかげで此頃は、日に八十枚ぐらい織る様になりました。もう兎に角がっくりしました、どのくらいその事に打ち込んでおるか、里帰りも盆、正月ぐらいで、それがこの人を使うしこ使わんならんといった様な物ではなくて、もう一生懸命働くという事です、そして、働いたそれは、みんな愛子さん。
 あんた達の物になるという事、働かせて頂きながらですね、お父さん、あれをして下さい、お母さん、是をと、もう非常に喜ばれるそうです、例えば、お母さん達にお小遣いを上げてもです、喜ばれないそうです、貯めときなさい、貯めときなさいと云うて、金さえ貯めれば良いと言う様な、守銭奴的なものでもないらしいです、働くという事の喜びを。 一家中で味わっているという感じなんですね、それが本当に信心修業という事になって来たら、素晴らしい御徳をうれるだろうという話をしていた訳で御座います。朝早くから晩遅くまで、ちんちろ舞いして働かなならんという事。
 例えば そう言う様な働きをしている人がです、本当に是だけの事が、神様のおかげを頂かねば出来ないと、解った時にですね。是は素晴らしい 朝のすがすがしさ、昼の忙しさ、身の廻りの忙しさ、そこにです、今日もこの様な忙しい事の中に、この様にお使い廻し頂いてと、それこそ 満腔の喜びが感謝です、今日は本当にお使い廻し頂いた、その後から湧いて来る物、それが喜び、愛子さんの場合は、そこまでは行ってないごとあるから、前嫁さんの話を聞いて。
 前の嫁さんに、敗けちゃならんと言った様な、我情はないのですけれども、話を聞いておって、本当に自分で、実際は何が出来るかと、私は誰よりも力がある、誰よりもさばけてる、そこには金が貯まるかもしれないけれど、心からわいてくる喜びは、頂けないと思う。そういう、おかげを頂いている中に、信心を分からせて貰うという事は、もう私は、何も出来ないのだと、神様のおかげを頂かなければ、出来る事ではないという、信心が本当に分からせて頂いたら、そこから御用が、お使い廻し頂けば頂く程、有り難いものになってくるだろう。
 その有り難いと云うものが、御徳になっていく、それこそ そういう忙しい中にあってもです、 自分がいちいち手を下さなくても、自分が田に出なくても、どの様な忙しい百姓させて頂いておっても、お茶も、お花もさせて頂ける楽しみも 信心の稽古も充分打ち込める事の出来る、時間も頂ける様なおかげが頂けれると思うのです。一生そのような事ならどの様になるか。
 ですからそうであればある程、神様のおかげを頂かなければという、所謂朝のすがすがしい目ざましのおかげを頂くと同時に、もうそのままご飯を頂いて、茶碗を洗う暇のない程働かせて貰うて、それこそ一生懸命お使い廻し頂いた、さあお風呂でも入って、お礼でもさせて頂く時に、本当に今日一日お使い廻し頂いて、この様な健康のおかげを頂いて有難いという事をです。
 心から神様に感謝出来る様な信心を、身に付けて行かなければ、例えば年をとってもずっと出来る、又は息子に嫁を貰ってから、また息子の嫁に自分と同じ様な事が出来なければ、もう家の家風に合わんと云う事になったら、問題である、そういう中に、そういう素晴らしい修業させて頂くのであるから、それが徳にならなければいけない。そして人間の幸福の為に、与えて下さっている一切の物、是は食物だけではない、着る物だけではない、様々な楽しませて頂ける様な事柄でも、神様がお恵み下さってあるんですから、それを充分頂かせてもらえるおかげですから。
 皆さんに、何時も申します様に、例えば商売に、よろづやさんというのがありますよね、何でも有るそして、一日中ちんちろ舞い。だからその、よろづやさん的な修業の中からです、段々おかげを頂いて、同じよろづ屋さんでも、大きな大きなデパ―トの様な、よろづ屋さんにならないかんよって、そして社長なら社長でがんと座っておって、それぞれの品物を売ってくれる人がいて、自分の末梢神経が人の上にそういう働きが現われる様な おかげを受けなければいけない。
 その為には、今日申しました様に、本当に自分は何も出来ないんだと、何が出来るか聞かせてもらって、成程そうだと分かったら、それが実感出来る為の信心修業が、なされなければいけません、神様のおかげを頂かなければ、出来る事ではないんだなあと、そして年を取って行くに従って、いよいよ安気安穏のおかげを頂かないけない、あらゆる所に、それが、行渡って行く様な働きになって来る様な、御徳を受けなければいけないでしょうが。一生あの人は働き人だった、それでは神様が喜んで下さらんと思う、愛子さん達の今の若さ今の元気、どうでしょう、
 万一そこに病気をする、手が動かん足が動かん、どんなに理解の有るご主人でも、両親でもつい嫁を貰そこなったと 言う事になるのではないだろうか、ですからそういう素晴らしい働きのその中に、修業とさせて頂ける、そこから神様のおかげを頂かねば。この事だって、ムシロ一枚織る事だって、出来ないのだと言う所に、感謝の日々というか、神様に捧げなければおれない喜びというか。
 そういうものが朝のすがすがしさ、昼の忙しさ、夜の有難さと云う事になって来て、その有難いという心が、たまり溜まって。真に有難いと言う事になり、それが御徳になり、そしてよろづ屋さんからデパ―トに変わって行く様な、大きなおかげが受けられる様になり、自分の思うておる以上の事が、自分の周囲でも出来ていけれる様な働きになって行く、おかげを頂かなならんと思うですね。
   どうぞ